演歌は日本の<伝統>ではなく、ただの<流行歌>である。-「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」問題Pt.1

あまりにアホらしかったんでスルーしようと思ったけど、自分でも演歌を振り返るいい機会なんで書いておく。
ろくに調べもしないで書いてるから、引用とかしないでね。

 

きっかけはこのニュース。

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この人たちのいう<演歌>ってものが何を指すのか具体的なことはわかんないけど、世代的なことを考えれば、昭和40~50年代の演歌のことを指しているのではないかと。
そこで言いたいのは、演歌は伝統なんかじゃないってこと。

 

もともとの演歌とは、明治時代の自由民権運動の中で、政府を批判する演説が取り締まられるようになったことを受けて、じゃあ歌ならいいだろうってことで、政府を批判する歌として生まれたもの。つまり、<演説歌>の略だったわけです。

それを流しの演歌師がヴァイオリンやアコーディオンなどを弾きながら歌って、譜面を売るようになった。その代表的存在が添田唖蝉坊で、添田は徐々に政治的な歌から脱却していく。戦後になると楽器はギターに変わり、北島三郎のように、流し出身の演歌歌手なんて人がでてくるようになる。それはまだだいぶ後の話。

 

この政治的ではない歌は、演歌というよりも<流行歌>というべきもので、SP盤のレーベルにもだいたい<流行歌>とクレジットされてます。

例えば、明治時代であれば、川上音二郎一座の「オッペケペー節」(日本人初のレコード吹込み)。これは大昔ですけど、NHKの朝ドラにもなりましたね。たしか、主演が中村雅俊だった。大正時代であれば、中山晋平が作曲して松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」や「ゴンドラの唄」は大ヒットしました。前者は島村抱月のアイデアでプロモーションされ、日本初の<ヒット曲>になったと言われています。後者はヒットとしてはそこそこだったと言われていますが、 「いのち短し 恋せよ乙女」という歌詞がよく知られているように、地道に歌い継がれている曲です。演歌でもなければ、むしろイノヴェーションやプロモーションに支えられた<ヒット・ソング>だったわけです。

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※このSP音源は非常に聞き取りづらいので、唄をもっとハッキリ聞きたい方は、佐藤千夜子さんが歌ったものを検索してみてください。

 

戦前の昭和ひと桁の時代に流行っていたのは、洋楽のカヴァー、つまりジャズでした。当時、ジャズと言われていたものにはラテンやハワイアンなども含まれる のですが、それに日本語詞をつけて歌っていたわけです。例えば、ディック・ミネ「ダイナ」、二村定一「アラビアの唄」「私の青空」(狭いながらも楽しい我 が家、ってやつです)などは洋楽のカヴァーです。その少し後に出てきたのがやはりジャズ出身の服部良一で、淡谷のり子「おしゃれ娘」などの和製ジャズから 後の歌謡曲につながるようなポップスをたくさん世に送り出しました。

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この頃の歌は、コブシをつけずに朗々と歌うのが主流です。いわゆるクルーナーってやつですね。どんなものかわからない人は、ざっくりですが、大瀧詠一の歌い方だと思ってください。いかにコブシをつけるかが大切な演歌とは正反対ですね。

洋楽の出身の歌い手も多く、淡谷のり子はシャンソンの出身。「丘を越えて」「青い山脈」で有名な藤山一郎はクラシック出身。「東京の屋根の下」の灰田勝彦 はハワイアン出身で、ヨーデルの使い手としても知られていました。もっと後の時代ですが、フランク永井はジャズの出身。菅原洋一はラテン(タンゴ)の出身と、洋楽出身の歌手がヒットを狙って流行歌に転向していくわけです。ちなみに、ムード歌謡の創始者として有名な和田弘とマヒナスターズも、もともとはハワイアン出身です。

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では、現代演歌につながるものがどこから出てくるかというと、これはもう作曲家・古賀政男の古賀メロディーが原型だと言っていいでしょう。例えば、昭和6年に藤山一郎が歌った「影を慕いて」(オリジナルは前年の佐藤千夜子)や「酒は涙か溜息か」あたりは、後年まで歌い継がれる古賀メロディーの名曲です。

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古賀はギター、マンドリン奏者で、「影を慕いて」はもともとギター合奏曲でしたが、佐藤千夜子の勧めで流行歌として録音。それを藤山一郎が歌ったことで、 古賀メロディーのスタイルが出来上がったといわれています。藤山版の「影を慕いて」のオリジナル録音は、ギターのみを伴奏に歌われています。「酒は涙か溜息か」もギターが大きくフィーチャーされていて、後年の演歌のアレンジで、クラシックギターでオブリのフレーズを入れ込むのが定番となるのは、ここにルーツがあるのではないかと思います。

 

しかし、藤山一郎はクルーナー歌手。ここで大問題となるのが、演歌のコブシはどこから出てきたのか、ということです。実は、戦後の昭和20年代くらいまでは、ほとんどコブシは出てきません。例えば、昭和27年に「赤いランプの終列車」でデビューした春日八郎などは、バリバリのクルーナーなわけです。しかし、その少し後の昭和32年に「チャンチキおけさ」でデビューした浪曲出身の三波春夫。翌昭和33年に、同じく浪曲出身の村田英雄が「無法松の一生」(古賀政男作曲)でデビューし て、これが大ヒットになります。そこに、デビューは戦中でしたがレパートリーの多くが民謡で、流行歌での初ヒットが昭和30年の「おんな船頭歌」だった三橋美智也を加え、この4人が昭和30年代に一時代を築くわけですが、実はこの浪曲と民謡のコブシの影響が大きいのではないかと考えます。

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もう1つ、古賀メロディのルーツも気になります。それまでの流行歌はジャズをベースにしたものが多く、朗らかな曲調も多かった。しかし、戦争が始まる昭和 15年に発売された高峰三枝子「湖畔の宿」(服部良一作曲)は、リズムこそジャズでしたが古賀メロディ調の楽曲で、軍部はこれを軟弱だとして発売禁止にしようとしました。時代が時代とはいえ、そのくらい違和感があるものだったということでしょう。

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そこで持ち上がってくるのが、演歌の韓国起源説です。韓国には「トロット」という大衆歌謡があるのですが、これは少しリズムが軽快ではあるものの、四七抜きの音階や楽曲の構成、歌に入るところの間の置き方など、演歌そのものと言ってもいいほどそのスタイルは酷似しています。古賀は少年時代を朝鮮で過ごし、 現地の伝統的な音楽に触れたとされており、その影響なのではないかという説があります。ただ、「トロット」がこの時点でどの程度完成していたかを僕は知らないので、これがルーツだとも言えません。

その点で、先に書いた村田英雄の「無法松の一生」は、トロット的な楽曲と構成にコブシという演歌的な要素が満たされたという点で、演歌のスタイルの完成形をみた曲でした。

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トロットのことは詳しくないので、僕でも知ってる曲を2つ挙げておきます。まず、トロットの帝王といえば羅 勲児(ナフナ)。この「なんで泣く」は日本語ヴァージョンもあって、日本でもよく知られた曲です。日本語版はより演歌っぽいアレンジです。

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趙 容弼(チョー・ヨンピル)の「釜山港へ帰れ」は有名ですね。この曲はトロットといっていいと思いますが、チョー・ヨンピル自身はもっと幅広い音楽性の持ち主です。これもリズムアレンジがカッコいい。

 

しかし、この後、流行歌と一線を画す形で、渡辺プロを中心としたロカビリー・ブームが起こります。それに押されて、この「演歌」スタイルはすぐに主流とは なりませんでした。そんな中で昭和37年にデビューしたのが北島三郎でした(ビートルズと同期です)。流しの演歌師出身だった北島は最初から演歌歌手だったといえる珍しいタイプで、実質的なデビュー曲といえる「なみだ船」は、現代的な演歌の洗練を感じさせる楽曲で、北島の歌も細かなコブシを多用しながら絶妙な押し引きで聞かせる完成度の高いものでした。その2年後にデビューしたのが都はるみ。「アンコ椿は恋の花」で聞かせた唸るようなコブシはまさに衝撃的で、ここにきて、演歌の要素は一通り出揃ったわけです。

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さて、演歌のもう1つの大切な要素。それは歌詞です。

北島三郎でいえば、<女シリーズ>(「函館の女」など)、<任侠シリーズ>(「ギター仁義」など)、<漢字一文字シリーズ>(「川」など)など定番のテーマがあるわけですが、演歌一般では、男が主人公の歌では<筋道を通す男の世界><度胸一発><妻への愛>というテーマが多いことに対して、女が主人公になると<一人酒場で飲む酒><一人寂しく北へ向かう><男に捨てられ一人泣く><あなたの妻になれなくてもいいの>などなど、どこまで後ろ向きなんだという暗いものが増えてきます。その裏にあるのが、亭主関白や男尊女卑的な考え方であることは否めないでしょう。

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この曲は載せなくてもいいかなと思ったけど、あまりにもカッコよかったんで。
ブレイクの入れ方といい、ギターといい、演歌というよりリズム歌謡です。

 

女性が主人公の場合のこういったテーマは、昭和30年代には主流ではありませんでした。しかし、高度経済成長を経た昭和40年代になると、こういった歌が急増してくるのです。僕はここが流行歌と演歌の分かれ目だったのではないかと思っています。

その原点となる歌は何か。僕は昭和41年の美空ひばり「悲しい酒」(石本美由紀作詞・古賀政男作曲)ではないかと想像します。この曲自体には男尊女卑的な 匂いはあまりしないのですが、とにかく難しい曲で、高度な歌唱力と表現力が必要とされてきたことから、美空ひばりの見事な歌唱が一つの模範とされていま す。この曲を1つの完成された世界と見なしたところから、そういった楽曲が増えて行くきっかけになったのではないかという気がするのです。

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1970年代から80年代、昭和でいえば45年~64年。この時代に全盛期を誇った演歌歌手は枚挙に暇がありません。北島三郎五木ひろし八代亜紀、森進一、石川さゆり小林幸子、etc。今回の「議員連盟」がいう演歌ってこの時代のものなんじゃないでしょうか。

ここで注目したいのが五木ひろしです。3度の改名の後にようやく掴んだスターの座という話は有名ですが、そのきっかけとなったのが作家の山口洋子でした。 五木が再デビューのきっかけとなった「全日本歌謡選手権」の審査員をしていたのが山口であり、五木ひろしとしてのデビュー曲「よこはまたそがれ」を始め、 五木の70年代の楽曲の多くの作詞を担当しました。女性で作家でもある山口が歌詞を書いたからか、当時の五木の歌には男尊女卑的な匂いがするものが比較的 少ないのです。しかし、80年代以降、多様な作家の歌を歌い始めると、徐々に男尊女卑的な匂いが忍び込んできたのです。84年の「長良川艶歌」などは、言っちゃえば<リンフーでワンナイトスタンドで即OK>な歌ですよ。これがレコード大賞を受賞してしまう、そういう時代だったんですね。確かに、気持ちを風景描写に溶け込ませた美しい言葉と、音符を削ぎ落としたスラー中心のメロディ、琴の独奏のイントロから重厚なオーケストラへと流れていくアレンジと、非の打ち所のない名曲です。 でも、今この曲が新曲として世に出てきたらどうでしょう?

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そして、いつからか演歌人気は徐々に下火になっていきます。それと共に、歌詞からも男尊女卑や不幸を看板にした歌が減っていくんです。これは時代の要請 だったんでしょうか。世の中のモラルも変わり始め、女性の地位向上が叫ばれるようになる中で、これまでの演歌が時代にそぐわなくなってきたのは確かです。 少なくとも、90年代にバブルが崩壊して、世の中が大混乱している中で、不幸を歌い続けるしみったれた演歌を誰が聞きたいでしょうか。

謡曲はJ-POPと名を変えて、その本質までもを変えていきました。対して、不幸の要素を取り除いた演歌が盛り上がらないのは、その魅力が半減してしまったからでしょう。本質を失いながらもスタイルだけが継続しているのだから、面白くないのは当然です。つまり、流行歌としての演歌の役割は終わったのです。

演歌とはせいぜい昭和30年代から50年代までの30年弱の<流行>だったと考えるべきであり、それが伝統だなどと考えるのは勘違いも甚だしいと思います。ちなみに、演歌に付きものの着物という衣装は、もともとはコスプレ感覚で着始めたものだったという説があります。

 

さて、この議員連盟は、なぜ<議員>という政治的背景を持ち出したのでしょうか。趣味ならば、個人の集まりである同好会で十分なはず。やはり、そこには 政治的な思惑、世の中に対してそういった歌が受け入れられる下地を求めていると考えるのが自然でしょう。つまり、男尊女卑的なものを良しとする考え方を否 定していないということです。そうじゃなければ、「時代に合った新しい演歌の創造」とかそういうことを言うはずですよね。いやー、国民のみなさん、ナメられてますよ~。

そのうち、演歌の延長で軍歌が復活するから。

 

※ちなみに、僕は流行歌としての演歌は嫌いじゃないので、有名な曲はひと通り聴いてます。アンチ演歌ではないので、いちおう。

神の御名のもとに、何でも正当化できてしまう危うさ「ジーザス・キャンプ〜アメリカを動かすキリスト教原理主義」


2006年の映画なので今さらですが。「ジーザス・キャンプ」を見た。副題に<アメリカを動かすキリスト教原理主義とあるように、キリスト教の宗派の中で極端なものの1つ、福音派による、子供たちを教育するサマーキャンプのドキュメンタリー。

福音派は政治的には保守派(右派)と相性が良く、共和党支持の受け皿となっている。学校教育を否定し、<天地創造説>を信じ、<神のために死ねるか>と問いかけ、(当時の)ブッシュ大統領を信望し、中絶反対と説教する。これを10歳に満たない子供たち相手にやるのだ。これはもう洗脳でしょう。そして、政教分離の原則に反している。キリスト教の場合、神に変わって語りかける聖職者がいるので、もし、<私の言葉は神の言葉>と言ったらどうなるか。<神の御名のもとに戦え>と言ったらどうなるか。そういったものを簡単に信じてしまう子供たちの集団が形成されてしまったとしたら。

映像の中では、リベラル派のラジオDJが、福音派の女性との対話の中で、<神の軍隊を作ってどうするんだ>と問いかけている。これと似たようなものをどこかで見たことがないだろうか。<神の御名のもとに>という言葉の前では何でも正当化できてしまうという危うさ。非常に排他的で、自分たちだけが正しいと思い込んでいるところも危険だ。内なる悪を外的要因に置き換えて、考え方がどんどん攻撃的になっていく。

宗教とは、本来は自分の内面を高めていって、結果、皆が幸せになるようにといったものだと思うのだが、原理主義者の場合は、神は完璧に正しく、従ってそれを信じている自分も正しい。間違っているのは周りだ、と解釈するので、どうやっても争いが絶えない。どんな宗教でも、自分を顧みなくなったら、ただのカルトになってしまうということですね。これは政治も似てるかもしれません。もし「神」を「お国」に変えたら・・・

 

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ラッツ&ももクロ問題

ブログを引っ越して1発目の投稿です。まだまだ準備中。


ぶっちゃけ、こんなに大きな問題になるとは思ってませんでした。
しかし、これがインターネット時代の反応というやつでしょう。

今回の件は、もともとはももクロとの共演によってラッツ&スター(シャネルズ)時代へのオマージュとして企画されたもので、そのための黒塗りだったと思われます。これはラッツにとってはトレードマークみたいなものですから、もちろん差別意識などまるでなく、ただの日本国内向けのサービス的な企画だったはずです。

しかし、海外ではそうはとってはもらえません。ラッツが黒人音楽をルーツにもったグループで、リスペクトの表れなんだと説明しても、それでもNGだというのです。ここに日本と海外(主にアメリカ)の黒塗りに対しての考え方の違いがあります。

ぶっちゃけ、僕も最初は「これはリスペクトの表れなんだからいいじゃないか」という考えでした。しかし、いろいろ考えてみて、考え方が変わりました。特に、BMR編集長の丸屋九兵衛さんのツイッター@QB_MARUYA)に書き込まれた一連の流れは非常に示唆的で(論争はまだ続いているので、丸屋さんのツイッターを見てほしい)、中でもAki 安希 (@YOJPGIRLAKI)さんのこのツイートにハッとしました。


この黄色い顔、つり目、歯並びの悪さというのは、海外の人から見た日本人に対してのパブリック・イメージですが、そういった通常なら侮辱的な意味を持ったものをマネしてリスペクトしていると言われても、納得できるはずもないでしょう。

また、丸屋さんのnoteには、黒人の人たちからのコメントが掲載されていました。


それを受けて、僕がフェイスブックに書いたのがこれ。

※この中で「単一民族国家」と書いたのは、話があらぬ方向にいかないようにざっくり簡略化したためです。

結局、もはやどんな理由があろうとも、黒塗りはすべきではないということです。
ただし、今よりも黒塗りの意味を分かっていなかったであろう35年前の日本社会において、ラッツ&スター(当時はシャネルズ)が黒塗りしたということを責めるのは酷かもしれません。


そんなことを書いた僕のエントリーにコメントしてくれたのが、オーサカ=モノレールのリーダー、中田亮さんでした。とても分かりやすい内容だったので、許可を取って転載することにしました。

オーサカ=モノレールは68〜72年のジェイムズ・ブラウンのスタイルで活動するファンクバンドですが、ヨーロッパでもかなり人気があり(特にスペインでの人気はすごいらしい)、毎年ヨーロッパ・ツアーを行っています。海外の黒人音楽ファンたちと触れあう中で、いろいろ肌で感じるところがあったであろうことは想像に難くありません。また、中田さんは、ブラックムーヴィーにも精通しており、黒人文化に対して幅広い見識を持っている方です。海外で黒人音楽をプレイする日本人の目線から、今回の問題はどう見えているのか。



 「海外に行く」といっても、僕がよく行っているのはヨーロッパです。
 ヨーロッパでは「アメリカの黒人問題」についての認識はそれほど高くないと言えると思います。日本より少しだけ上か、ほとんど同じ程度だと思います。さすがにイギリスは英語の国なので、知識としてのアメリカの常識は知れわたっていると思います。しかしフランス、ドイツ、スペインなどでは、それほど「アメリカの常識」は知られていないと思います。(また、とくにすべてが知られる必要は無いと思っています。)おなじく、同盟国といえども、ここ日本で、アメリカの常識が浸透する必要はないと思います。しかし、「(洋楽の)ミュージシャンが顔を黒く塗る」は、言い訳できないと思います。

 池上さんのおっしゃっていた「肌感覚」のことを言うと(註:僕は以前のエントリーで、「日本人が<黒塗りはダメ>の意味を皮膚感覚で分かるようになるにはまだまだ遠いだろうなぁ、自分も含めて」と書いた)、顔の黒塗りは「アメリカでは、犯罪レベル」という感覚です。もう、なんの言い訳を言わせてもらうスキマもない。これはアメリカでは常識です。だから、アメリカの音楽、R&Bとかソウルミュージックとか、そういうものを愛好している僕たちは特に、そういうことを知るべきだと思います。理由もふくめて納得するところまで理解したいと思います。

 それだけではないんです。たとえば白人の画家が黒人をイラストに描くとするでしょう? それもダメなんです。かなり写実的だったら可能かもしれません。「写真を撮る」ならOKかもしれません。でも絵はかなり難しいと思います。(もちろん黒人が描くならOKです。)これは「僕はダメだと思う」という話ではないですよ。「アメリカでは描けない」と言っているんです。  そうすると、日本では、「そんな馬鹿な」「逆差別ではないか?」というような意見がでるかもしれません。それも無理はないと思います。アメリカの事情に僕たちは明るくないわけですから。アメリカはそういう「負の歴史」があるので、「現時点ではそういうルールにしなくちゃならん」となっているんです。そういう「歴史上の時点」にいる、というだけです。将来にもっと状況が良くなれば、肌の色の薄い人が、濃い人のイラストを描いても良くなる日がきっと来るでしょう。それは誰もが望んでいることだと思います。


J-POPでさえ海外にファンを持つインターネット時代の現代は、日本国内向けだから、過去へのオマージュだからといっても通用しません。むしろ、黒人音楽に精通しているラッツ&スターだからこそ、黒人芸能の裏にある差別の歴史まで考慮して、慎重であるべきだったのかもしれません。ももクロからしてみれば、訳も分からずといったところでしょうが、この問題が持ち上がった後の記者会見をキャンセルしたのはまずかったと思います。これでは逃げたと思われても致し方ありません。ラッツ&スター側にも誠実な対応が臨まれます。

今回の事件で多くの日本人に「黒塗りはダメ」だということが知られたのであれば、それはそれで1つの前進といえるかもしれません。しかし、ここにも日本人独特の潜在的な差別意識の問題があります。つまり、こういうことです。

「日本では、人種差別は起きていないと考えられている向きがある」

「差別の存在の否定」こそが「無意識の差別を助長している」

人種差別は「自分たちとは関係がない」と考えている人も多い

※以下のリンク先の記事より抜粋



僕ら日本人はもっと自覚的になるべきなのかもしれません。