昭和歌謡とJ-POPと右傾化の関係

謡曲をわざわざ<昭和歌謡>なんて呼ぶようになったのは、90年代後半、当時の歌謡曲ブームの中で、UAの「情熱」なんかが歌謡曲っぽいと言われた頃からだと思う。

なぜ、あえて昭和といわなくてはならなかったのか。
それは、歌の用途や歌に触れるメンタリティが変わったからだ。

では、<昭和歌謡>と<J-POP>の境目がどこにあるのか。
それは、ドリカムの登場だと思う。

この前、昔の歌謡曲の歌詞が云々という記事を書いたけど、いまなぜみんな歌詞を重視するのか、(歌謡曲以降の話だから)そこに書かなかったことがある。

それは、吉田美和の歌詞の独創性で、"私"目線の極めて主観的で客観的要素を排した歌世界が、リスナーの共感を呼び起こしたということ。

以降、ヒット曲には何よりも<共感>が求められるようになり、夢やドラマなど、かつてはリスナーの中になかった世界を歌うことによって、外向きに未知の世界を夢見ていた歌はどんどん内向きになっていった。
それによって、リスナーの視界に見える世界が非常に狭くなり、思考はより狭いコミュニティへと向かったいったのではないか。

それがエスカレートして、地元意識だったり、友達や親への感謝といったテーマにたどり着く。つまり、<等身大>ブーム、<応援ソング>ブーム、友達との<友情ソング>ブーム、<感謝>する歌ブームというように発展していくのだ。

こういったメンタリティは右傾化と非常に親和性が高い。
そう考えると、時代が平成に変わる頃から、ヒット曲を通じて、徐々に右傾化のメンタリティを受け入れる精神的環境が育まれてきたことになる。

若い世代の政治への無関心は、政治そのものに関心がないわけではなく、自分から遠い世界にリアリティがわかないから、積極的にコミットしようとしないということなのではないか。

あえて自分の知らない世界に触れようとせず、自分が楽に暮らせる今の(精神的)場所から出たくないという意識が強いのではないか。

これは、マイルドヤンキーの地元意識とも非常に似ているし、音楽に政治を持ち込むなという考え方にも呼応する。

そもそも、昭和歌謡は反社会的で左翼的でならず者の歌だった。

演歌なんてやくざ者の人生観と不倫が主なテーマの(現在の演歌のような、日本的な風景の美しさとか健全さを歌うようになったのは平成以降)、絵に描いたような反社会的な歌ばかりだった。

それが変わっていったのは、単に時代が変わったというだけではないと思う。

吉田美和に罪はないが、安易な共感という金になる木を植え続けたレコード業界の罪は重いかもよ。

以上、想像と妄想でした。

曲がヒットしない原因は歌詞の長さなのか

下記の記事について、思ったことがあったので書いてみます。

citrus-net.jp
楽曲に魅力がないというのはその通りだと思う。
歌詞がどんどん長くなる傾向があることも確かだけど、歌詞が短ければヒットしやすくなるのか。本当に歌詞の長さが”ヒット"に関係しているのかどうか。
僕の考え方はちょっと違う。

 

本文には以下のようにある。

<音楽ファンから“歌詞を理解する”という習慣が失われてしまいかねない。実際に「歌詞の内容はあまり気にしてない」と言う人に出会い>

これって、実は昔から変わっていないんじゃないかと思う。

 

音楽って歌詞で聴いてるかな?
歌詞がいいから曲を好きになるのかな?
歌詞が長いと理解しにくくなるからヒットしないの?

実は、昔から多くの人は歌詞なんか聴いていないのではないかと思う。曲を覚える過程で歌詞が入ってくるのではないか。そして、意味が入ってくるのはさらにその後。実は歌詞をただの記号として覚えている可能性もある。

 

例えば、有名な話だけど、ホイットニー・ヒューストン「I Will Always Love You」(原曲はドリー・パートン)は、一時、結婚式の定番曲になりました。でも、これは別れの歌なんです。いくら英語の歌とはいえ、歌詞の意味は無視されている。縁起を担ぐのが大事な場で、歌詞の意味を調べずに使うのはどうかと思うが、曲調から結婚式にぴったりのイメージだということで定番になったのは間違いない。

www.yogakuhack.com

作詞する方には申し訳ないですが、そんなもんなんだと思う。

 

シンプルな歌詞の方が覚えやすいし、昔は今よりもシンプルな構造の曲が多いから覚えやすいというのは確かでしょう。
でも、本質はここではない。

 

70〜80年代のヒット曲は、実はかなり技巧的にヒットを狙ったものも少なくない。

例えば、郷ひろみのデビュー曲「男の子女の子」(1972年)は、郷ひろみ自身の名前を売るための仕掛けがされている。

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歌い出しはこうだ。

<君たち女の子 僕たち男の子>

レコードではこれだけなのだが、ステージでは<女の子><男の子>それぞれの後に<GO GO>と客が合いの手を入れる。

これは最初からそれを狙って作られたものだし、それどころか、そういうことができる曲をという発注だった。つまり、企画段階からそれを狙っていたわけだ。

しかも、デビュー曲でそれを一発で認知させられるというのが凄い。
この歌い出しのメロディと歌詞は聴いた人に一発で覚えさせるだけのシンプルさとインパクトがあったということだ。

 

反面、歌詞全体をみたときに、内容のなさに愕然とする。この曲どんな意味があったっけ?と考えるのもバカバカしいほど、何もない。
歌詞に意味があることが重要で、意味がない曲がダメなのであれば、この曲がヒット曲で歌謡史に残る曲である意味が説明できない。

 

実は、歌詞に意味を求めるようになったのは、70年代半ば以降なのではないかという気がする。
もちろん、意味はあるんだけど、それほど深く求めていなかったというか。
シンプルである分、意味も表面的で、字面通りに受け取ればそれが全て、というものが多かったように感じる。

ヘンな話、子供の名前を付ける時だって、1人目の子供だから太郎か一郎、2人目だから次郎か二郎、春に生まれたから春子、昔はその程度だったのだ。

 

では、どこから歌詞が重視されるようになったのだろうか。
それは、フォークだと思う。

60年代半ば、アメリカのフォーク・ミュージックが輸入され、ボブ・ディランに代表されるメッセージ・フォークが日本でも歌われるようになる。初期のよしだたくろうなどはその代表格だろう。

サウンドよりも言葉に重きが置かれたことによって、歌詞は長くなる傾向にあり、これが日本における長い歌詞のルーツなのではないか。

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当時はまだアンダーグラウンドなものだったフォークがお茶の間に届くようになってから、少しずつ意味を重視した歌が増えていったのではないか。

つまり、吉田拓郎のメジャー化であり、さだまさし、アリス、オフコースなどを経て、ニューミュージックと呼ばれるポップスへと進化していくその過程で、歌詞に意味を求めることが定着していったのだと思う。

 

しかし、ヒット曲というのは、歌の意味やメッセージ性よりも、売れることが第一なわけで、前述したようなギミックなどを駆使しながら、大して意味の無い曲が量産されていく。
ここで意味のあることを歌っているはずというリスナーの意識と、実際にはそれほど意味のない歌が増えていくという現実が乖離してしまったのではないか。

 

実は、音楽は歌詞よりも曲先で作られているということの方が圧倒的に多い。だから、そこに乗る言葉の数は、あらかじめ決められているようなものだ。
特に歌謡曲の時代は譜割が重視されてシンコペーションが良しとされていなかったり、1つの音符に乗せる音節(単語ではない)の数が決まってたり、リスナーにとって聴きやすい=覚えやすい曲作りが徹底されていた。

 

だから、プロの作詞家の本当のすごさは、歌詞の意味よりも、<楽曲が最も活きるワンフレーズ>を作り出したことにある。

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例えば、もんた&ブラザーズの「ダンシング・オール・ナイト」は、歌詞の意味というよりも情景描写に近いし、それ以上にサビの<ダンシング・オール・ナイト>というフレーズのインパクトが凄い。英語なのにシンプルで誰にでも覚えられる。意味以上に記号的に覚える感覚なのかもしれないが、決して忘れない。これはもう発明に近い。まさにプロの仕事だ。

フックとなるメロディに印象的な言葉を乗せるということを意図的にやっているから、フックの印象=曲の印象になって、多くのリスナーに同じ印象で共有されやすくなる。

 

つまり、多くの人たちに認知される曲というのは、そういうものなのだと思う。

 

そういう意味で、松本隆という作詞家の異質さがよく分かる。

詞先が多かったことで、歌詞に意味をきちんと含ませていることが多かったし、色の表現を多用することで、リスナーをその曲のイメージに誘導することができた。

 

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実は作り手が歌詞に意味(正確に言えば表現のニュアンス)を求めるようになったのは松本隆以降であり、それ以前の歌詞は、物語性があってもそこに意味を求めない風景描写的なものが主流だったのではないかと思う。

 

松本の影響か、80年代になると、歌詞の中にドラマを入れ込むことが定着し、ショートムーヴィーを見ているかのような映像的な印象を残す曲が増えていく。

言葉の意味を1つ1つ追いかけなくても、曲のイメージでなんとなく全体の意味を掴みとれてしまう。それでいて、読み込めば、そこには様々な伏線が埋め込まれている。

作詞家のスキルが最高に高かった時代だ。

 

では、近年の歌詞はなぜ長いのか。

理由はいろいろあると思うが、例えば、楽曲作りのノウハウが蓄積されて、いろいろなことができるようになったこと。

シンガーソングライターの時代を経たことで音楽家自身の表現が優先され、戦略的に楽曲を作ることが良しとされなくなったこと。

ミュージシャンや歌手を"アーティスト"と呼ぶようになったことで、より音楽家の志向を優先する風潮ができたこと。 

テレビの音楽番組が減ったこととラジオの主流がAMからFM放送に変わったことで、オンエアされるために3分間という長さにこだわる必要がなくなったこと。

ほかにもあるかもしれないが、そういうことの積み重ねなんでしょうね。

 

そういうものが良かった時代があった一方、今はまた揺り戻しがきている。
音楽に求めるものが変わってきた、そういうことなのではないかと思います。

 

ちなみに、歌詞が短かった時代=80年代以前の歌謡曲の時代とすると、実はその頃はそれほどレコードは売れていない。

たまにモンスター級のヒットは出るが、ミリオンセラーなんか年に1~2枚程度出ればいい方。50万枚売れれば大ヒットというのが当たり前だった。

それが90年代のミリオンセラーが当たり前の時代(タイアップの時代)を経たことで、ヒットしたとイメージする枚数の概念が壊れてしまったんでしょうね。

 

でも、50万枚でも曲の浸透度は90年代以降とはぜんぜん違った。レコードを買わなくてもみんな曲を知っていた。
それはテレビの音楽番組がたくさんあったり、
今ほど娯楽の種類がなかったり、音楽に目を向けさせる要素がたくさんあったから。

そういった時代背景や、音楽業界(レコード産業)の大きさなどによっても売上枚数は変わるし、だから、何がヒットかといったときに単純に売上枚数での比較はできない。

 

つまり、歌詞の長さはヒットとそこまで大きな関係はないんじゃないかなという気がするし、ヒットとは歌詞だけで生まれるものではないのだ。 

 

では、なぜ多くの人たちが"歌詞が"っていうのかというと、サウンドを表現する語彙を持っていないからだと思う。

例えば、テレビの音楽番組で司会者が音楽について触れるとき、歌詞以外のことに触れることがあるだろうか。
司会者自身も理解できるのは歌詞の言葉だけで、音について説明することができないだけ。
おそらくリスナーも同じだからそれで成り立っているのだ。 

 

なぜヒットが生まれないのか。それは結局、音楽を売る側が音楽や時代が求めるものをわかっていないということなんだと思う。

いつまでも"ありがとう"とか"友達が"とか、私的で内向きな社会性ばかりを歌っていても、世の中には響かないし、なにか未来を予感させるものがないと、閉塞感は打破できない。

 

次のヒットはそこにあると思う。

 

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ところで。

ここまで書いて、中島みゆきさんの「糸」への違和感の理由が少しわかった気がする。

これ、ほんとにいい曲なんですよ。
なのに、なんとなく気持ち悪さが残って、なんなんだろこれと思ってたんです。

この曲ってドラマも風景描写もなくて、ただ概念だけが漂ってるんですね。

要するに、日常から剥離された思想だけの歌。
あまりにも雑念がない。
それって宗教の思想のみを聞かされているのと同じなんです。

そういうものを良しとするかどうかは個人差があると思うのですが、さすが、”みゆき教”と言っておきますw

渋谷系とは何か〜図らずもその深層に迫ってしまったFBでのやりとり

Facebookに書いた記事なんですが、ソウル系の某大御所評論家さんからブログにしといた方がいいよといわれたので、移植しておきます。
Facebookにはいろいろ書いてるけど、ブログはどうもおろそかになってしまうなぁ。

問題になったのはこの記事。
それに対し、僕が書いたことと、いただいたコメント、それに対しての返信を引用します。
そのへんをよく知る関係者の方や渋谷という街をベースに音楽活動してきた方など、当事者の方々がコメントしてくださっていますので、いろいろ参考になるかと。
ちなみに、僕自身も渋谷系の頃は渋谷のCDショップで働いていましたので、そのへんの空気は肌でわかっているつもりです。

そういえば、いつだったかラヴ・タンバリンズのEllieさんが渋谷系ってなんなの?みたいなこと言ってたときの、僕との長〜いやりとりがFBに残ってるはずなので、それもひっぱりだせれば面白いかも。
でも、FBって過去ログの検索が面倒なんだよなぁ。

 

funmee.jp

ジョーに納得いかないセレクション。
いまになって、渋谷系を勝手に再定義したような感じ。

渋谷系」という言葉が生まれたのは1993年だから、それ以前の作品は厳密には「プレ渋谷系」とでも呼ぶべきもの。
フリッパーズを入れてしまうと、まるで渋谷系がバンドブームと同時期に存在したかのように錯覚させてしまう。

また、渋谷系の代名詞であり、渋谷系をもっとも意識的に体現していたピチカート・ファイヴが選ばれていないのは意味不明。
逆に、本人たちのあずかり知らぬところで渋谷系の代表格に祭り上げられていたラヴ・タンバリンズが選ばれていないのもおかしい。

渋谷系とは関係ないヴィーナス・ペーターやなぜか洋楽のベン・フォールズ・ファイヴ(彼らが渋谷系と呼ばれたことはこれが初めてのはず)、渋谷系の次の流れを作り出したサニーデイ・サービスまでが入っている。
これじゃ、「渋谷系」ってものが余計わかりにくくなるわ。
これだったらはっぴぃえんども渋谷系でいいんじゃない?

こうやって歴史は捏造されていくのだよ。

 

Andy Shiono これを書かれた方がおいくつかは分かりませんが、当時は店頭には立たれていなかったのでは?
コーネリアスの1stのリリースは1994年です。^^;

 

池上 尚志 これを書かれた方は編集者〜タワレコBounce編集部などを歴任されているようなので、そのくらいしっかり調べなさいと言いたいですね。読者は肩書きで信じちゃいますから。

 

Makoto Sugishita なんでBF5が渋谷系?はじめて聞いた(笑)

 

池上 尚志 だしょん。

 

Makoto Sugishita 自分の渋谷系の定義も怪しいとは思うが、違うのはわかるよね(笑)

 

池上 尚志 渋谷系って再発見と編集の文化なんですよ。だから、同時代の新感覚バンドが入ってくるわけないんです。

 

Yoko Matsuda『そのセンスは、Suchmosをはじめとするシティポップ勢と通じる部分が多少あるかもしれません。』 その書き方、ずっとオリジナルラブファンの私からしたら、ちょっとイラッとするんですけど。

 

池上 尚志 サチモスがシティポップだというのは表層的な部分で本質は全く違う。それを断定してしまうのはおかしいし、シティポップと渋谷系って関係ないし。

 

Yoko Matsuda だいたいねー、オリジナルラブ渋谷系に括られるかもしれないけど、田島さん自体、ライブで叫んでんじゃん?『俺は渋谷系じゃねー!』って。ぷんぷん。

 

池上 尚志 それ、有名w
まぁ、本人の思惑に関わらずにカテゴライズされちゃうもんなんだけどね。

 

よしなり ひでお 業界はコネ入社が当たり前だから、時々こういう「わかってない人」がいます・・・

 

池上 尚志 バウンスも落ちたなーって思いますね…

渋谷系の後に某歌姫を発掘〜デビューさせた元プロデューサーさんです

 

和久井 光司 ひどいね。渋谷にレコード屋が30軒ぐらいあった時代を知らないんだろうけど、音楽じゃない文化をたどっていくと、当時の渋谷の曖昧な雰囲気が、新宿や下北とは圧倒的に違っていたことがわかるはずだよね。音楽で括ると実態から遠くなっちゃうんだよ。「音楽ならちょっと知ってます」って程度のヤツに、文章なんか書かせちゃダメだろ。池上、書けよー w 人がいて、街があって、そこにどんな空気が流れていたか、が文化のキモなんだからさ。西武が仕掛けたこととか、それこそPop Indsとかみたいな「下地」を知らないと、ホントは書けないネタだよねー。

 

池上 尚志 そうなんです。渋谷系ってジャンルじゃなくて<空気感>なんです。そのキーワードが、上にも書きましたが、再発見と編集感覚。古い音楽を再発見して、そこに今の感覚を加えて再編集したもの。それをまとめているのが渋谷という街に集う人たちに共通するある種のセンスなんです。だから、リアルタイムでも模倣した渋谷系は空気感がぜんぜん違ったからすぐに分かった。
そういう曖昧なものだから、これまでに何度も渋谷系リバイバルが叫ばれながらも形になっていないし、渋谷系の本にも核心を突いたものがないんだと思います。

 

和久井 光司 そうだね。スクリーンの事務所も81年から渋谷桜ヶ丘にあって、当時はミュージック・マガジンも、ロッキング・オンも、ミュージック・ステディも、みんな桜ヶ丘にあった。で、俺は宮益坂下のキティでも仕事するようになって...。それが80年代の始まり。70年代の渋谷は、天井桟敷東京キッドブラザーズで始まったんだよ。文化屋雑貨店とか、そういう流れを受けたセンスだったんだけどねー。渋谷自体を知らないと、渋谷系のことなんか書けないだろ。自分がどれだけ無知か、常に反省してるような人間じゃないと、もの書きなんかやっちゃダメだよね。

 

池上 尚志 牧村憲一さんの「渋谷音楽図鑑」はまさにそういう本ですね。ご本人は渋谷系の本ではないといっていましたが、渋谷系とは音楽そのものの名前ではないということからいえば、渋谷という街を音楽を中心に語ったこの本こそがまさに渋谷系の核心なのかもしれないと思います。

 

和久井 光司 牧村さんとかは、ちゃんと見てきた人だからね。言葉もうまく使い分けてると思う。

 

池上 尚志 ちなみに、ラヴ・タンバリンズのEllieさんは、そのど真ん中にいながら渋谷系というものが何かを全くわかってなかったし(本人はUS R&Bの人だし)、フリッパーズギター渋谷系じゃないのは(たしか本人たちも否定している)のは、渋谷系の構造がフリッパーズの「世界塔」の構造そのものだからです。いろんなものを飲み込んで作り変えながら膨張していくという、本人たちにとっては結果
(しかも失敗してる)でしかないことをジャンルだといわれても理解できるわけないんです。

 

和久井 光司 当時は編集者もライターも、「なんだろね、渋谷系って?」って言ってたんだけど、雰囲気で使うと便利な言葉だったんだよね。ZESTとかでギター・ポップ買ってるような連中が好むJポップのことだったのかもしれないけど、黒沢兄弟みたいなポップ職人までそこに入れちゃうとどうなの?みたいになっていった記憶がある。だから、あとから言われてることのほとんどは捏造だよ。マキちゃんが渋谷系を唄ってるのは、シャレなのにね。

 

池上 尚志 そうそう、あの野宮さんのキッチュな借り物感をマジに捉えるととんでもない誤解が起こります。

 

和久井 光司 彼女は凄いシンガーなんだよ、日本にはいなかったタイプの、キッチュなポップ・シンガー。本人も「実体」を求めてはいないんじゃないかな。あ、実体がフワフワしてるのか ww ステキな人だよね。

 

池上 尚志 まだ会ったことないんですよ〜。

 

和久井 光司 うそ〜、ポータブル・ロックは観なきゃダメよん。

※80年代初頭から活動を続けるミュージシャンで音楽評論家さんです

 

池上 尚志 いちおう、この筆者の意図を代弁すると、今の感覚で渋谷系を捉えるとこうなるってことだと思うんだけど、実態のないものに今の感覚を加えると別物になってしまうということがわかってないんですね。
当時、シティポップなるものは、渋谷系のクリエイターの人たちの経験の中に内在していたけど、表面化していなかった。これを読み誤ると大変なことになる。

 

Andy Shiono 池上さんが書かれているように「渋谷系」は海外のレア・グルーヴ・ムーブメントから既存の評論家には相手にされなかったような音楽の再発見とそれを自分たちの新しい価値観でエディットし小規模なクラブイベントなどでプレイするといった流れから始まっていたのではないかと思います。(その過程で「Suburbia suite」や「POP IND'S」最終号の「小西、高浪が選ぶ200枚」といったカタログ的なものも出来るわけですが。)

個人的にはあくまで「リスナー主体」のムーブメント(インターネット普及前の最後のカタログ文化)で彼らの感性に近く共感できるバンドが「ピチカート」や「ラヴ・タンバリンズ」「オリジナル・ラヴ」などであったのだと認識しております。
 

池上 尚志 リスナー主体の、ってところは重要ですよね。
ただ、ラブ・タンバリンズだけはちょっと特殊なケースだと思っていて、日本で初めてのクラブオリエンテッドなソウルバンドだったんだと思うんですよ。
ソウル系の上手い人たちっていくらでもいたんだけど、クラブ界隈の人たちとは感性が違った。だから、Ellieさんのヴォーカルに驚いたわけです。バンドはドヘタだったけどw 要するに、自分たちの文化から出てきた初の本格的なシンガー。だから、渋谷系の代表格なんですね。
Ellieさんからすれば巻き込まれてしまっただけなんだけどw

 

Andy Shiono 池上さんが以前インタビューされたEllieさんの記事を改めて読んでみましたが、色々考えさせられました。

ラヴタンバリンズは以前何度か見ましたが、ヴォーカリストとバンドの力量差が違いすぎるという点でジャニス・ジョプリンとビッグ・ホールディング・カンパニーみたいだなとは感じていました。(笑)(自分の理想に演奏能力がなかなか伴わないというのも渋谷系のバンドには結構ありましたね。)
アーティストに一般人のような常識を求めるようになってしまった昨今ではEllieさんのようなタイプのヴォーカリストが活動するのは中々大変だとは思いますが、頑張って欲しいですね。
 

池上 尚志 いまのEllieさん、すごいですよ。歌もすごいし、アドリブのラガマフィンとかやっちゃうし、パンツも脱いじゃうw

 

Andy Shiono お〜、見てみたいですね。^ ^


Fukada Dochio リアルタイムを知る世代としては確かに違和感しかないセレクションw
そもそも、渋谷系、クラブ系はDJから始まったもので、バンドはノルマのあったライブハウスよりDJ集客のあったクラブに出るようになり、DJから色々なレアグルーヴものを教えてもらったりして音楽を作って行った感ありますな。渋谷系、クラブ系を作り上げたのはDJすな。

 

池上 尚志 そうだ。ドッチーさんて元渋谷系の人じゃないすか!w

 

Fukada Dochio 元ヤンみたいな響きw

 

池上 尚志 元チーマーだったりしてw

 

Fukada Dochio チーマーってww
いたなぁw

※元渋谷系の某バンドのドラマーさんです

 

安室ちゃん・・・

引退宣言してからファン増やしてどうすんだ・・・。



<「25歳からは女の子じゃない」資生堂、「セクハラ」批判CMを中止>のニュースに関して

このニュースに関して。

headlines.yahoo.co.jp


びっくりするほどくだらないが、非常に重要なので書いておく。

これ、「思考停止」言葉狩りとネット時代ならではの「匿名の自己主張」がミックスされた、実に頭の悪い人たちの主張だなと感じる。

まず、「25歳からは女の子じゃない」の方。

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<25歳という年齢はもう子供じゃないんだから、「大人」としてのかわいらしさを目指そう>と言っているように僕には聞こえる。10代の子供に対する「かわいい」と20代半ばに対する「かわいい」って同じ意味なんでしょうか。昔だったら大人の女性に対する「かわいい」は、ケースのよっては「まだまだ子供なのね」というバカにしたようなニュアンスが含まれていると考えられた。例えば、僕はもう年齢的には十分オッサンだけど若いねと言われることがある。これは決して嬉しくはないです。おれはまだまだ下に見られてるって思うもん。同じ言葉でも立場によって捉え方が違うということを、このCMを批判してる人たちは見過ごしている。

これ映像の中ではなんで「25歳からは女の子じゃない」のかがちゃんと説明されてるよね。しかも、いつまでも子供でいたがっている主人公に対して、それを言うのが同世代の女友達っていう点で、上から目線でも下から目線でもなく、体験談として他人事じゃないんだよというニュアンスが加味されている。おまけに「かわいいをアップデート」するという、じゃあどうしたらいいかという提案までされている。まぁ、これが主題なわけだけど。

これ、どこが問題なんですかね?むしろ、僕には大人になってもいつまでも子供っぽくいることが「かわいい」んだと思うような風潮に対してのアンチテーゼとして、非常に秀逸な表現に思える。私はそう思わないとか、私とは立場が違うとか思うのであれば、このCMはあなたとは立場の違う人たちに向けてるわけだから、あなたがバッシングする必要はないし、お門違いの指摘ということになる。すべての人が同じ価値観じゃないからね。だから、自分に合ったものを選択していくしかないんですよ。違うものに対していちいち目くじらをたてるのは、「運動会でみんな同時にゴールしましょう」といっているのに等しい。ちゃんとその言葉が何を指しているのかという背景にまで目を向ければ、このくらいはすぐに分かりそうなものだが。CMだからすべての人に向けたものじゃなくてはいけないという人もいるかもしれないが、むしろCMはきちんとターゲットを絞って制作されているものだがら、誰かをバッシングしたりしているわけじゃない以上、嫌ならスルーすればいいだけの話です。

 


もう1つ、「顔に出ているうちは、プロじゃない」の方。

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これ、どこがセクハラなんでしょうね?たまたま男性が女性に言っているからセクハラっていってるのかもしれないけど、性別にまったく関係ない発言ですよね。男が男に言ってもセクハラになるんですかね?こんなの<ウザいこと言う上司っているよね>くらいのネタじゃないですか。しかも、「プロじゃない」っていうセリフのとこ、一緒に言うでしょ。要するに、これはこの上司のお決まりのセリフで、この会社ではみんなが知ってる一種の決まり文句みたいなもんだってことです。たまにいるでしょ、決め台詞を持ってる人って。そしてそれをみんな(少しバカにしたようなニュアンスを込めて)マネしている。その時点で、ウザいけど許容できないレベルじゃないということが映像から読み取れる。それと共に、ウザいと思いながらも、ちゃんと自分を振り返ってまだまだだなと思ってる節も見られる。さらに深読みすると、この上司は「疲れてるかもしれないけどもうちょっとがんばれよ」というニュアンスで使ってる可能性もあるし、「ちょっと気を引き締めていけよ」というニュアンスで使ってるのかもしれない(それが社員には伝わってないのかもしれないが)。あと、「25歳からは女の子じゃない」の方がパート1でこっちがパート2だという連続ものということを考えると、この女の子は現在25歳で、その年齢が仕事においてどんな立場かを表しているかという設定にもつながる。どちらにしても、ぜんぜんダメだしはしてないし、むしろある程度この人を認めてるように感じるのだけど。

これ脅しですかね?セクハラですかね?

ただし、この「顔に出ているうちは、プロじゃない」というセリフはセンスないなぁとは思う。「プロじゃない」っていう言葉には「一人前じゃない」「まだまだ大人じゃない」っていうのを含ませたかったんだと思うんだけど、頑張りが顔に出るとプロじゃないかっていうと全くそんなことないわけで、ちょっと言いがかりっぽいんだよね。このセリフを頑張って考えました感が出ちゃってて、顔じゃなくて「仕事に悩んだ形跡が出ているうちはプロじゃない」と言い返してやりたいw いや、別に出たっていいんだけどね。いいもんができてれば。

なんにせよ、ちゃんとドラマ仕立てになっている時点で、そこに登場するキャラクターの背景というものがあるわけですよ。そこまで読み取って初めて真意がわかる。もちろんCMだから、その真意が読み取りやすいように、仕掛けもしてある。そういうのを全部無視して、キャッチのひとことにたいしてだけでディスっているんだから、「思考停止」以外の何物でもないでしょう。

で、そういう「思考停止」してるくせして「自己主張」ばかりはしたがる人ってすっごく増えてますよね。しかも、そういう人は「匿名」でしかものを言わない。また、そういうのもわかっててわざとディスる人もいる。CMを潰して喜んでいるようなね。もうCMが本来伝えたかった意図とかどうでもいいんです。

最近、長谷川豊が透析患者の件でテレビの全番組を下された事件があったでしょう。あれに関して長谷川本人がブログで書いてたけど、長谷川を引き摺り下ろそうとネットで暗躍する何人かの人たちの行動ってのが確認されてるわけです。長谷川の言動の是非はともかく、そうやって世の中を混乱させて楽しんでる連中もいるんですよ。

blog.livedoor.jp

テレビやスポンサーはこういうネットの反応をすごく気にするけど、必要以上に悪意のあるネガティヴな反応はスルーすべきでしょう。こんなに気にしてたらCMのクリエイティヴィティなんかなくなっちゃうよ。

んで、またかと言われそうだが、こういう社会的な悪い風潮をリードしてるのが実は安倍政権だったりするんです。自民党議員たちの幼稚な言動、日本社会はあれをマネしていますよ。ほんと、はしたない大人が増えてます。

【リポート】岩里祐穂 presents Ms.リリシスト トークセッション Vol.1 ゲスト:高橋久美子

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8月27日に行われた、岩里祐穂さんのトークイベントに行ってきた。

近年は裏方の作家さんが前に出てきて、作家しばりのコンピレーションなんかもいろいろ出るようになってきたけど、その本人が中心になってイベントをやることってあまりない。そういう意味で、これからの作家の在り方みたいな部分も含めて興味深く見に行った。

なんつーか、岩里節全開。人前で喋るのは初めてと言っていたけど、絶対に向いてると思う。普通なかなかあんなに自由に喋れないもん。あれは性格だなー。明るいし美人だし、テレビに出ても人気出そう。

で、その(名目上の)第1回目のゲストは、元チャットモンチーのドラマーで、いまは作家、作詞家として活動している高橋久美子さん。2人の馴れ初めはももクロのライヴで隣合わせの席になったことで、チャットモンチーのファンだった岩里さんから声をかけたそうだ。

<お互いの曲を褒め殺し合うコーナー>として、お互いで相手の書いた詞を選んで質問をぶつけていくコーナーがあったんだけど、これが面白かった。

高橋さんが選んだ岩里さんの曲は、ももクロサラバ、愛しき悲しみたちよ」と「創聖のアクエリオン」。
岩里さんの言葉選びって、今井美樹さんの自立した大人の女性のイメージが強いけど、実は無邪気さというか、少女性がその本質にあるように思う。少女マンガ的な突飛なロマンティシズムの使い方がとても上手いのだ。

例えば、「サラバ〜」だったら、<言っちゃえば”い〜じゃん”>とか<言いたいよ”VS”言えない>、<聞かざるで”ござる”>、のような崩した口語体、記号的な言葉使い、キャラクター的な言い回しなど、例え歌うのが10代の少女だとわかっていても、普通はなかなか使えないもの。「アクエリオン」の前半部の格調高い言葉使いや、あまりにも有名なサビの<一万年と二千年前から愛してる>という飛び道具的なフレーズ、どちらも普通なら躊躇しますって。アニソンの時代にガッツリ乗っかれたことや、トリッキーな音使いをする菅野よう子の楽曲に見事に世界観を合わせられるのは、こういった性質が影響しているんじゃないかと思う。

そういえば、以前インタビューしたとき、初めて堀ちえみさんに歌詞を書いた時(「さよならの物語」の前のボツったもの)、文字の間とかにイラストを描いたりして、担当さん(今は亡き、あの渡辺有三さん!)に面白い子だね〜なんて言われたというようなことをおっしゃっていた。そのイラストが今は言葉選びの感性に姿を変えて現れているのではないかという気がする。
また、大人っぽい歌詞を書くときは、少女性が大人に憑依したような、なりきった感がある。だから、ヒリヒリするような現実的な歌詞よりも、ロマンティシズムが前に出てくるんだと思う。

対して、高橋久美子さんは、学生時代から歌詞(というか詩)を書き続けてきたらしく、チャットモンチーのときもほとんどが詞先だったとのこと。今も歌にしない普通の詩や小説なども書いているとのこと。

興味深かったのが、やはりももクロに提供した「空のカーテン」の詞で、岩里さんが指摘していた、”朝のニュース見て扉開けて歩き出して教室の前に行くまでにたった2行”というスピード感。そして、僕が気になったのは、場面が”移動”していること。例えば、歌謡曲の場合はあまり移動しないんですよ。いまの一瞬に思ったことを3分に膨らませて1曲にするのが当たり前だったりするから。もう1つ岩里さんが指摘していたのが、冬の歌だってわかってるのに、歌詞の最後で<冬が来た>歌うのはなぜかということ。高橋さんはこれを”改めて噛み締めたかったから”と言っていた。で、僕があれっ?と思ったのは、歌の世界では季節って感情を代弁するものだったはずなのに、”冬であることをかみしめている”、つまり、主人公の感情と冬であることが実は同等のものだったということ。”主人公がいて季節は冬”なんじゃなくて、”冬のシーンの中に主人公がいる”という構図の歌だったんだなと。こういう構造の変化って、なかなか言葉で説明するのは難しいんだけど、曲として聴いた時の感覚としてはずいぶんと違って伝わるもの。だから、若い子たちにはこれが当たり前なのかもしれないけど、 僕のようなオッサンには違和感があるし、それが新鮮だったりする。この日の岩里さんの名言の1つに「新しいものは違和感の中からしか生まれない」というのがあったが、ほんとその通りだなと思った。

もう1つ、歌詞とそれ以外の小説やメロディの制約がない詩を書くときってずいぶん感覚が違うはずなのだが(僕自身ライターとして文章を書くが、じゃあ歌詞も書けるよね、じゃあ小説を書けばいいじゃんなんてよく言われるが、そう簡単にはいかない)その時間軸ってどうなっているんだろうと思った。ある程度の長さが必要な小説には時間軸上の移動が必要だし、しかし、高橋さんの歌詞は同様に”移動する”ことによって時間の変化が起きる。これをまったく長さが違う文章の中にどうやって収めていくのかということ。この後に客席からの質問コーナーというのもあったが、僕が質問して一般の人の機会を奪うのはよくないので、 あとでご挨拶したときにこっそり質問しようと思っていたのだが(これを職権濫用というw)、タイミングが悪く聞きそびれてしまった。答えはたぶん気にしていない、か、そんなこと考えていない、だという気がするが・・・(こういう質問はだいたい考えすぎですよって言われる)。

その他、<自分たちの歌詞が生まれる場所コーナー>と題した、自分たちの作業場の写真の公開や、高橋さんによる詩の朗読(SCANDALに提供した歌詞のほかに、サプライズで、岩里さんの35周年を記念して森尾由美に提供した「そうしましょうね」も朗読した)や岩里さんが歌詞を書いた坂本麗衣さんが1曲パフォーマンスしたりと、あっという間の2時間半だった。トークそのものもおもしろかったが、客席からは作詞を勉強しているという人からの質問も飛んだ。作詞する人にはいろいろ参考になるような話 がいっぱいあったと思う。

最後には、10月に岩里さんがいわさきゆうこ名義でリリースした唯一のアルバムが初CD化されるとの告知も。実はこれ、僕がCD化したほうがいいですよ! と岩里さんに推したら、最初はいやいやあんなもの的なことを言っていたのに、その気になってw実現したというもの。いや、これマジでいいアルバムなのでおすすめです。金澤寿和さんの<Light Mellow>シリーズからのリリースです。

Vol.1と銘打っているものの次回の予定は未定みたいな話だったが、ゲストの具体的な名前も上がっていたので(決定事項ではないようなので、ここでは書かないでおきます)非常に楽しみ。だって、インタビューのときに、僕が2000年代以降をするりと抜け出した作詞家として岩里さんと共に名前を挙げた人だったんだもん!岩里さんと年も一緒だったはず。
あと、個人的には及川眠子さんをゲストに呼んでほしい。
アクエリオン VS エヴァ!!(といいつつ、どっちも見てないw)
あと、川村真澄さん。こちらも年が一緒だったはず。

そんなわけで、いろいろ楽しみにしております。

「Lady Marmalade」を歌う人にお願いしたいこと

どーでもいいことかもしれないし、余計な御世話なのだが、毎回見るたびに気になっているので書いとく。もうずーっと言われ続けていることだとは思いますが。

「Lady Marmalade」は、女性数人で歌う時の定番といっていいほど、プロもアマチュアもよくコピーしている曲です。で、コピーする時に誰のヴァージョンを元にすることが多いかというと、最近では圧倒的にクリスティーナ・アギレラやピンクらがカヴァーしたヴァージョン、つまり、映画「Moulin Rouge」のサントラのヴァージョンを選ぶ人が多いようです。

なんでそれが分かるかというと、Aメロの歌い出しがこうだから。

"He met Marmalade down in old Moulin Rouge"

 

いまはほんとにこの歌詞で歌ってる人が多いです。
ライヴだけじゃなくて、ちゃんと録音された音源でもこれだったりする。

でも、ラベルのオリジナル・ヴァージョン(厳密にはEleventh Hourというグループのものがオリジナル)は、”Moulin Rouge"じゃなくて"New Orleans"って歌ってるんですね。ここがポイントなんです。

つまり、この曲はニューオーリンズの娼婦の歌なんですよ。しかも"Creole Lady Marmalade"ってことは、この曲の主人公はアフリカ系の黒人じゃなくて、褐色の肌のフレンチ・クレオール。だから"The colour of cafe au lait"だし、”Voulez-vous coucher avec moi"ってフランス語のフレーズがあるんです。

で、アギレラ版がなぜ”Moulin Rouge"って歌ってたのかというと、あくまでも「Moulin Rouge」という映画の中の設定だからなんです。だから、それ以外で”Moulin Rouge"って歌ってると、歌詞本来の意味が台無しになっちゃうんですよ。もちろん、映画の設定ではパリが舞台だから、それはそれで意味が通ります。でも、それはこの歌の設定じゃなくて、あくまでも映画の設定なんですね。


アギレラ版のアレンジはカッコいいし、便利なメンバー紹介機能もついてるからそれはそれでいいんですけど、せめて"New Orleans"って歌ってほしいなーと思ってしまいます。歌詞を書いたボブ・クリューにも、<「おふくろさん」騒動>じゃないですけど、許さないわよっ!(←そっちの気がある人なのでw)って言われちゃいますよ。まぁ、もう亡くなってますが。


そして、パティ・ラベル・ファンとしては、ラベルのヴァージョンも聴いてほしいです。だって、バックはアレン・トゥーサンにミーターズ(ジガブー抜きだけど)だぜ。まずこれを聴いてほしいし、”New Orleans”って歌うと、僕のようなうるさいオッサンに、お、わかってるね!って思われますw

ちなみに、この曲を歌うのがもっとも似合うR&Bシンガーは、フレンチ・クレオールの血が入ってるビヨンセでしょうね。ビヨンセってこの曲歌ってないのかな?
(※Youtubeに「Beyonce & Rihanna」と書かれたのが上がってますが、あれはビヨとリアーナの映像を使ってるだけで、音源はアギレラ版なので要注意)

www.youtube.com